福沢諭吉様。
格差社会が広がり、スタートラインに立つのも許されない、今の時代でも学問をススメテくれますか?
たとえ「ゆとり教育」を見直しても、たとえ全員が同じ所得でも、学力の差は絶対に出ます。
比較をして格差をつけるのが、学力テスト。
どんぐりの背比べだったら、どんぐりの背比べとならぬよう、さらなる難問を解くだけの学力を求めてきます。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
学力テストはそうではないようです。
絶えず競争させられ、立ち止まることも許されず、どうしたらいいのでしょうか?
僕は、小学校のころ理科が大好きでした。大人顔負けの知識を持っていました。
でも、成績は非常に悪かったです。
だから、高校になったころには化学とか生物が大嫌いになりました。
中学校のころ英語が大好きでした。
Beatlesの歌詞を英和辞典片手に訳していたこともありました。
でも、高校になってからの英語は文法がうるさくなって、大嫌いになってしまったのです。
いわゆる「落ちこぼれ」というものに属します。
そんなことを思うと、昔の無邪気な自分に同情すらおぼえます。
福沢諭吉様。
学校から、学問をすすめられ、やる気になっても、落ちこぼれてしまうのは何故でしょう。
また、社会に出ると、学校の勉強から役立つことは皆無に等しく、僕達の世界では「学問」など死語になりつつあります。
学校で学んだことについては、何も生かされず、何も役に立たないまま、ほとんどの人は生きているようです。
そして、やりたいことも見つけられずに、時間を明日へと先送りし、今だけの生活を送っています。
というか、少年期に学問に費やした貴重な時間を返して欲しいものです。時間を弁償してもらいたい気持ちにもなります。
そんなふうに思っている人達が大勢いるとなると、嘆いてしまいますよね。
僕は今の職につく前、上場企業の管理職だった。その時にはよく面接をした。
「どうして当社の面接を受けに来たのですか?」と聞けば
「やりがいのある会社だと思ったから」とか、「自分の能力を発揮できると思うから」等、青い奴等は平気で言う。
いつも僕は「働いてもいないのに、判断できるわけないでしょ」と思い、さらに聞き返していたが、こちらとしては、借りてきた綺麗な言葉よりも、自分の言葉できちんと話してくれた方がうれしい。
なぜなら、自分の意思を相手に伝えれる人間か否かを判断するために、聞いているからである。
また、仕事をやめる時は「自分に合っていないので」とやめていく。
いずれにしても、「自分がやりたいこと」という言葉が「綺麗な言葉」になっているので気安く使うのであろう。
「自分がやりたいこと」という言葉は、そんなに綺麗な言葉でも、軽々しく言える言葉ではない。
自分というものを知らないのに、「自分に合ってる、合ってない」という判断などつきっこない。
自分というものを見つめてもいないのに、「自分のやりたいこと」など、見つかるわけがない。
多くの人がやりたくない仕事をやっているからこそ、この社会は成り立ってる。
たとえ、やりたいことを見つけ、それで食べていけるのはわずかな人だ。
いや、お金にならなくても、本当にやりたいものを見つけて、続けられる人は最高の幸せを持っているものだと思います。
2006年08月08日
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/6401639
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック
http://blog.sakura.ne.jp/tb/6401639
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック
従来は、平凡への強制と、官僚型組織への矯正のおかげで、やりたくない仕事でも、それを我慢し、仕事をする人間が出来上がっていたから社会が成立したのではないのか思います。
そして、今の時代は、自分は平凡ではない、型に嵌りたくない人間が蔓延しています。従来の教育が敗北したのだと思います。その結果、社会の成立にも危機がやってきているような気がします。
平凡への強制をされ、それに従い、自分の可能性を摘んだ人生を送る人々のおかげで、成り立つ社会が良いのか、自分は特別だと信じる人間のせいで、危機感のある社会が良いのか。社会という観点から見れば、当然成立しなくなることは大問題ですが、当人たちは、あくまで自分は特別だと信じて生きているほうが幸せであるような気もします。
人類は人間から始まり、そして社会ができ、社会と人間は相互作用しながら、生きてきたと思います。
それが、今は社会と人間が乖離し始めているような気もします。人間と社会は切っても切れないのもまた事実ですが。
>学校教育はお役所の官僚型組織に順応させるための矯正でもある。
>今は社会と人間が乖離し始めているような気もします。
本日、 橋本龍太郎前首相の葬儀でした。
それに供だって学校を含むお役所関係には半旗と黙祷を求める通達が届いています。
日本の象徴である天皇であるならまだしも、灰色政治家への手向けは違和感ありです。
また極東国際軍事 (東京) 裁判が不当であるというのなら、本当の戦犯は誰なのか追及もせずに時は過ぎています。
国家が戦争を長引かせることにより、原爆を落とされたということは変えようのない事実です。
この責任はいったい誰なのかと思うと、やるせません。
そのように、「社会」というものは、いつだって違和感を携えて流れて行くんですよね。
社会に対して人の心は乖離していくのも、うなずけてきます。