2006年11月10日

くたばれ新興宗教

新興宗教はお布施で始りお布施で終わる。
信者は高いお布施を払っている。
信じる心があれば人は安らかになれるわけだから、「お布施」で安らぎを購入しているだけだ。

でもよく考えてみよう。
お布施を必要としない。払わない人 つまり教祖はどうしてる?
彼らはお布施の集まらない場所で自分の教えを説くか? 答えはNoである。
どんなに綺麗ごと言ってもお布施の集まる場所でしか説かない。

例えば貧しい国には援助物資も必要ならば、心の拠りどころも必要だ。
それなのに、教祖どもはマザーテレサのような活動、古くは親鸞聖人。何故出来ぬ?
お布施の集まりやすいところでしか活動せずに、金のないところには目もくれない。
教祖が本当に自分の教えを伝えるという目的があるならば、集めたお布施でより多くの人に、そして貧しい国にでもいって布教するのが筋でしょう。
あなた達の理屈から言えば、お金などという俗物必要ないはずだ。
なぜ貯めたお金を還元しないのか?みなさんおかしいと思いませんか?
趣味の悪い建造物を建てて、色と欲にまみれているとしか言いようがない。


僕の意見は、新興宗教のような他力を信じて甘えるよりも、まずは自分を信じることが大切。
自力で強くなり、最後の最後で他力本願だと思っています。
手術拒否で親権停止のような宗教がらみの事件に憤りを感じたので、書いてみました。

他力本願
他力というのは、自力ではないこと。
つまり、仏様。阿弥陀如来に願えば救ってくれるということ。
そこから言うとキリスト教も他力本願だ。
神を信じれば神が救ってくれるという教えなのだから。
posted by NoiZ at 03:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 事件・ニュース
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